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藤原京遷都

奈良文化財研究所の講演会を聴きました



「藤原から平常へ」と題して藤原京が造営からわずか16年で平城京へ遷都された謎に迫ります。



藤原京は遣唐使がもたらした中国文化の象徴で、日本が唐風の一等国家であることを象徴するものでした。宮殿も全て唐風で石の礎石に板張りの床の立派な建物でした。

飛鳥の地で南側が山や丘陵で内裏のある北側は湿地帯で地盤が弱く立派で重い建物を支えきれずに次々に傾いてしまいました。また、当時の貴族、官僚は土間で仕事をしていたので床での仕事はやりにくかったようです。

そこで、改めて奈良盆地の北側に平城京を建設し、藤原京の大極殿を移築して儀式のために使用しました。さらに、同じ規模の大極殿院を東側にもう一つ作って政務を行う場所としました。最終的には東側が正式な大極殿となりました。

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アメリカの黒人奴隷

アメリカの黒人奴隷について

1619年、バージニア植民地に連れてこられたのが最初とされています。17世紀の終りには黒人奴隷が法律で決められ、18世紀には奴隷制は農業経済の必須な労働力として南部社会に定着しました。



アメリカ独立(1776)当時は黒人の90%は南部で奴隷として働いていました。大農園の労働力として、白人の5%が黒人奴隷を使役し、1%が100人以上の奴隷を持っていました。黒人奴隷は人格は認められず、家畜のようなモノとして所有者は自由に処分できる対象として扱われていました。

北部では奴隷を認めない州も多いが、奴隷制度を人権や道徳の動機からではなく、「愚鈍な黒人が白人社会にこれ以上増えないように」と偏狭な人種主義で反対したのです。

南部では黒人奴隷を「人種的に劣った黒人は自由を与えると堕落し破滅してしまうので、奴隷制で白人が手厚く保護し良い暮らしを保証しする」と正当化していました。

南部と北部の対立は南北戦争(1861-65)に発展し、北部の勝利によりアブラハム・リンカーンの「奴隷開放宣言」で奴隷制度は全米で廃止されました。「南部再建法」より解放された黒人は選挙権を得て、多数の州議員が当選しました。南部白人の間では「黒人の反乱」の恐怖が広がりました。



クー・クラックス・クラン(KKK団)は南部連合軍の元兵士らによって、黒人の危険な行動やそれを扇動する白人を規制する自警団として結成されました。黒人が投票できないように脅迫するなど、黒人平等化の動きはすべて骨抜きになり、実質的な白人支配の体制が復活しました。

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26聖人の殉教

マスコミュニケーション論の講義が今一つなので、一階上の教室で行われている西洋史の講義を聴いています。

イエズス会の日本宣教についての話です。トルデシリャス条約条約で新大陸はスペイン領、アジア・アフリカはポルトガル領と縄張りを決めました。マゼランが世界一周の航海をして、地球が丸いことを証明すると地球の反対側の境界も決めることになり、サラゴサ条約で東経144度30分が境界となりました。これによると日本は釧路付近で分割され、スペインとポルトガルのどちらに属するのかわかりません。



フランシスコ・ザビエルが伝来以来、初めはポルトガル人(イエズス会)の宣教師が独占的に日本に来ていましたが、その後ルソンからスペイン人(フランシスコ会)の宣教師が多く入ってくるようになりました。イエズス会は新しい世界へ布教するときに、現地の習慣や風習を尊重してキリスト教の厳密な教義にこだわらない方針ですが、フランシスコ会はこれに反対して対立します。



秀吉が長崎で26人の宣教師と信徒を磔にして処刑しましたが、スペイン船サン・フェリペの難破事件が発端となりました。南蛮人は初めにキリスト教を布教して信者を増やし、次に軍隊を送って現地の支配層を滅ぼし、最後に住民を奴隷として資源や産物を収奪するとスペイン人の船長が言ったと聞いて激怒した結果と言われています。

ただし、スペイン側にはこの記録はなく、ポルトガル人の宣教師がスペイン人を追放するために秀吉に讒言しのが真相のようです。

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ソクラテス

この春は学習院で西洋哲学の基礎を学んでいます

今日は第2回ソクラテスを聴きました。ソクラテスは一切の文献を残していないので、弟子の書いた本からしかその思想を知ることができません。その意味では、仏教の経典やキリスト教の新約聖書も同じです。釈迦、キリストと並んでソクラテスが3大聖人と呼ばれる所以かもしれません。



バチカンの署名の間にはラファエッロの描いた「アテネの学堂」があります。中央の二人は弟子筋のプラトンとアリストテレス、左でよそ見している老人が師匠のソクラテスです。



ソクラテスはデルポイの神託「この世で一番賢いのはソクラテス、あなただ」の神意を確かめるため、一般に賢いとされる政治家、詩人、職人を尋ねて対話をしました。その中で、自分だけが「何も知らないということ認識している」ことを確認しました。

このことは対話の相手の自尊心を傷つけ、伝統的な考え方をぶち壊したとして、裁判となり死刑の判決を受けて刑死します。

ソクラテス自身は何も悪いことをした自覚はなく、真実を追求しただけなので、有罪の判決を受けて量刑を求めるときに、オリンピアの優勝者が褒美に貰うような「迎賓館での食事」を要求しました。これが陪審員の反感を招いて死刑になってしまいました。

現代でも訳のわからないことを言ったり、行ったりして犯罪者となる人がいますが、ひょっとしたら時代の先を通り越した哲人なのかも知れません。

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カウマウ | MAIL | URL | 2016/06/29 11:01 AM | d4lfAl1g |

ルノワール展

六本木に来ています。



国立新美術館のルノワール展では印象派の巨匠ルノワールの代表的な作品が100点以上観ることができました。2年前にパリのオルセーやオランジュリー美術館で観た名画に再会できてすごくうれしいです。ムーランドゥラギャレット、ピアノを弾く少女、草原の坂道、都会のダンス+田舎のダンスなどお気に入りの絵をまとめて見られて本当によかった。



逆に、今オルセーにいったら、かなりガッカリしたことと思います。大雨でセーヌ川が氾濫してルーブルもオルセーも閉鎖しているとのニュースもあり、結果的にルノワールは避難できてよかったのかも知れません。

新美術館から坂を上って、六本木ヒルズの森美術館でポンペイ壁画展にもハシゴしました。2000年前にベスビオ火山の噴火で埋もれたローマの邸宅に飾られていた壁画を薄くはがして持ってきたものです。



2000年前とは思えない鮮やかな色彩と現代と変わらないローマ帝国の洗練された市民生活を見ることができました。フレスコ画はバチカンのミケランジェロの壁画で使われていますが、ポンペイでも全く同じ手法が使われていたのには驚きです。また、ルネサンスの遠近法や人物表現もこの頃からあったのをみて、ますますビックリです。

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イスラム海賊

イスラム教関連で塩野七生の「ローマ亡き後の地中海世界」を読みました



ローマ帝国が分裂、崩壊して東ローマ(ビザンチン)帝国は衰微し、西ローマの諸国は内紛を繰り返しカトリック教皇の権威も威光も地に落ちてしまいました。このカオスとなった世界でイスラム勢力が地中海を席巻しました。

北アフリカでは砂漠の民ベルベル人がイスラム化して海賊となりシチリア、イタリア、南フランス、スペインの海岸の集落を襲い、略奪や住民の拉致(奴隷化)をほしいままにしました。イスラム教では異教徒は「きたない犬」と呼んで戦争で財産を略奪したり、捕えてドレイにしても布教のための戦いなので良い行いと見做されています。海賊の地元の領主も収益の1割をもらえるので黙認し、その地方の産業となっています。



キリスト教側の住民はたまったものではないのですが、襲撃を避けるには見張り台(サラセンの搭)を築いていち早くにげるか、多額の身代金を毎年払って襲撃しないという契約を結ぶほかありません。こんなことが8世紀から千年も続きました。

今はイスラム教徒がキリスト教徒から迫害されているとの被害者意識がありますが、少し前まではその逆だったのは興味深いです。なぜ、宗教の壁を越えて仲良くできないかの疑問も少しわかるような気がします。

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糟屋の屯倉

アンチエイジング医学会はお昼に終わったので、博多の親戚を尋ねました。

九州工業大学でエンジニアリングを教えてこられた伯父さんは89歳を迎えられてもとても元気です。今はゴルフとコンピュータグラフィックの他、郷土の歴史研究を趣味としています。



北九州は朝鮮との文化的なつながりで、古くから栄えていました。福岡県古賀市周辺は至る所に古墳があり、卑弥呼や神功皇后の三韓征伐ゆかりの神社などを見て回りました。



また、6世紀の磐井の乱で首謀者の子筑紫君葛子が死罪を免ぜられるためヤマト王権へ献上したとされる、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉の大規模な掘立柱の遺跡も見学しました。

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かうまう | MAIL | URL | 2015/07/27 06:48 PM | AP4fH1b2 |

日本スペイン交流400周年

JASSの企画でスペイン大使館を訪問しました。

今年は慶長遣欧使節団派遣400周年に当たることから、「日本スペイン交流400周年」の記念の年に当たります。この春、皇太子殿下もその式典に参加するためにスペインを訪問しました。レレレも7月にスペイン旅行をして、400周年を祝いました・・・関係ないかな。



仙台の伊達正宗は幕府の許しを得て、キリスト教の布教とメキシコ銀の貿易を願って使節をスペインに送りました。日本で作ったガレオン船(サン・ファン・バウティスタ号)は正使ロヨラ神父、副使支倉常長と日本人150人を載せて、太平洋を横断してメキシコ(ノバイスパニア)に渡りました。更に、便船で大西洋を渡ってセビリアに到着し、マドリッドでスペイン国王に拝謁して国書を手渡しました。更に、ローマでローマ法王に拝謁し、キリスト教の洗礼を受けました。

支倉使節は始めは非常に歓迎され、支倉も素晴しい人間と評価されました。その後、日本でキリスト教が禁止され教徒が弾圧されたなどの情報が入ると、使節はスペインの片田舎に閉じ込められ、貿易などの許可を得ることなく国外退去を命じられでむなしく帰国することになりました。



セビリア周辺にはハポン(日本)の名字を持つ人たちが千人位いるそうです。彼らは使節団の日本人の子孫と考えられています。日本を出た150人の日本人で帰ってきたのは8人と言われています。事故や病気で亡くなった他に、キリスト教禁制の日本に帰れなくなった人や、スペイン娘の魅力に負けて帰れなくなった日本人も数多くいたのでしょう。ハポンさんの写真を見るとわかるような気がします。

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スペインのバロック美術

第一週の午前は西洋美術史として、スペインのバロック美術を学んでいます。

7月にはマドリッドやトレドに行って、エル・グレコ、ベラスケス、ムリーリョなどのスペイン絵画を見てきたばかりでしたので、とても興味があります。16-17世紀のスペインは新大陸からの富を背景にした全盛期で王や貴族のための絵が描かれ、反宗教改革の旗手として聖母崇拝、聖人信仰、善行による救済などキリスト教の教義を庶民でも理解できるように宗教画が盛んに描かれました。



バロックが始まる直前のエル・グレコからカラバッジョの影響を受けた明暗対比、庶民や食べ物などの静物を描いたボデゴン、次のロココに繋がる甘美な宮廷画への変遷が中心です。その背景となる社会情勢の変化、モチーフに込められた意味、同じテーマの描き方の変遷など奥の深い話を聴くことができます。

絵画を考察する基本的な手続きとして、ディスクリプション(作品記述)を学びました。作品に何が、どのように描かれているかを確認します。その上で作品の特徴や特異な点を明らかにして、それが社会状況、宗教的な問題、対象とする観衆や場所や状況を検討します。



最終日の試験では、自分で作品を取り上げてディスクリプションと特徴の抽出し、その背景を述べるとの課題が与えられました。ここでは、上野で見たエル・グレコの「無原罪の御宿り」を取り上げようと思っています。

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ヨーロッパの起源

毎週金曜日は早稲田オープンカレッジで「ヨーロッパとは何か」の講義を聞いています。

午前中の「宇宙の起源」の講義に引き続いてなので、睡魔と授業料を巡る闘いになりますが、ほぼ睡魔が勝利してしまいます。意識のあるうちに聴いた「ヨーロッパの起源」のうんちくを紹介します。

「ヨーロッパ」の語源はギリシャ神話の、フェニキアの王女エウロパを見染めたゼウス神が白い雄牛に変身してエウロパを誘拐して、クレタ島まで飛んで行き、そこで3人の子供を得た話から始まっています。



ヘロドトスは「歴史」の中でギリシャを中心として西を「エウロパ」、東を「アジア」、南を「リビア(アフリカ)」と漠然と3つの地方に分類していたました。「アジア」はプロメテウスの妻から、リビアはポセイドンの妻から名付けたと言われています。



キリスト教では旧約聖書の解釈として、ノアの洪水を生き抜いたノアの三人の息子の長男セムはアジア、二男ハムはアフリカ、三男ヤペテはヨーロッパに分かれて住み、それぞれの土地の祖先となったとしました。

地中海を真ん中として、世界を3つの地域に分けた地図をT-O世界地図といい、中世ヨーロッパで広く信じられていました。東が地図の上なので、注意が必要です。

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